Vol.40(2001.05)
メンタルな部分の総集編として、私が別の目的で書いている文章の一部を示します。‥心理面におけるアトピー性皮膚炎の増悪因子とは、「不安定な心」とでも呼ぶべきもの。 状況に依存し、不利な事象が生じると、受身的にストレスを感じて「被害者的な意識」に陥りやすい心理状態。
「目標」や「自分の価値観」「生き方の美学」的な、ある種の方向性が定まっていないために、ストレスが、それを乗り越えることによって充実感や人間的成長をもたらすというpositiveな働きをせず、ただ心身を疲労させるだけのnegativeな働きしか生じない状態。
これは「性格」に起因する部分も確かにあるであろうが、むしろ「時代」が生み出したものではないか? 過去において「アトピー性格」と言われるような人は少なかったのか?
遺伝的にある種の性格は形作られており、それは変えることが困難であり、ある意味その人自身を示すものである。 したがって、生まれた後に生じた色々な影響によって「性格」が修飾されて、「アトピー性格」というものが出現してきたのではないか。
それならばそれが形作られる修飾因子を考えれば、「アトピー性格」を克服し、本来の愛されるべき「日本人的性格」を持って「自立」することができないだろうか?
筆者は以下の考察からそれは可能であると考える。
ではその「時代」とは? 「豊かさ」が、生きるために生じるべき根源的な欲求を削りつつある。 生命活動の根源は「無に帰する」ことへの「抵抗」であり、それは常に身に降りかかる様々なストレスに対する戦いであり、自己を、そして子孫を守るための戦いに他ならない。
ヒトにおいても、状況・時代によっては、他の動物同様、時間的成長が精神的成長と等しくなる場合がある。 生きることに必死にならざるを得ない状況では、人は否応なくその状況に立ち向かうことになり、それはその個体の精神的成長を促す。
しかし何もしなくても生きていける、その状況下において自らを成長させることは、相当な克己心がなければ成し遂げられない。 目標や夢を掲げる前に無限の選択肢が広げられると、その中からひとつ選ぶことに対して「不安」を抱き、選んだあとも別の選択肢がよかったのではないかと迷う。 「豊かさが生み出した、自由という名の不安」である。
その中で、人生の目標を掲げ、夢を抱いて、一つの方向性を持って、自分を磨き鍛えていくこと‥ そのなんと困難なことか! 太平洋戦争を経験した人が現代の若者の軟弱ぶりを嘆いているとしても、その人物が現代に生まれていれば、おそらく同様の軟弱ぶりを披露していることであろうし、現代の若者が大正時代に生まれていれば、同様に戦争を、歯を食いしばって生き抜いてきたであろう。
それでは強制的に耐乏生活を強いてみれば鍛えられるのか? 自らそれを望めばよいかもしれないが、おそらく他の、同世代の人間の暮らしぶりと比較して、「なぜ自分だけが」という受身のストレスが生じて、うまくいかないであろう。
本当の、「時代」が生み出した耐乏生活では、それは「必然的状態」であり避けられないものであること、さらに不公平感を生み出す「他人との差」というものがなく、みんな苦労しながら同じ生活をしているのであれば、そこから生じるストレスは本人にとって「受け入れざるを得ないもの」となり、それを「受け入れることができた」人はそのストレスによって「成長」し、「強く」なれる。 それでは今の時代で「成長」すること、最終目標である「自立」を勝ち取るためにはどうすればいいのか?
ストレスが生じた時、それに対応するには、基本的に「受け入れる」か「戦う」かのどちらかしかない。 そしてnegativeなストレスは、「受け入れる」べきことが受け入れられない、「戦う」べきことから逃げることから生じる。 さらに受け入れるべきことなのか、戦うべきことなのか、それが判断できなくて悩む時にも生じる。
ストレスへの対処の仕方、「受け入れる」か「戦う」かは結局そのストレスの持つ意義、その人が何を求めたために生じたものかによって決まってくる。 仕事の意義、学校の意義、家庭生活の意義‥ これらのものを考えねばならない「時代」なのだと思う。 そしてその根底には、目標、夢、価値観、美学、憧れ‥ 真面目な顔で話すと苦笑されてしまいそうなことが本当に求められる「時代」である。
かつて「夢のマイホーム」に向けてスチャラカ社員が社長を目指していた高度経済成長期に個人が課せられていたノルマと責任の重さは、「少しいいものが買えて、時々旅行ぐらいできれば」と考えている現代のサラリーマンに課せられているノルマと責任の重さよりも、むしろ軽くはなかったか?
志しの高かった時代の方が、志しの低い現代よりも、仕事の内容的には楽だった?
確かに現代の方が便利だが、処理すべき情報が多い分、責任は重くなっている。 それ故に、なおさらそれに打ち勝つだけの「目標」が必要になる。
まして「皮膚炎」があればなおさらである。
皮膚炎が悪化することが分かっていても、仕事が減らせず、その結果予想どおり皮膚炎が悪化して、自分を悲劇の主人公にしてしまう‥ こうならないためには?
その仕事の意義を自分がどうとらえているかを考え、皮膚を犠牲にしてでもやらねばならない「意義」があるなら、「被害者」にならず、万全の用意をしてそれに立ち向かうしかない。 意義が見出されないのなら、皮膚を犠牲にする意味はない。
その判断をいかに下すか? 「被害者」になることなく、冷静に状況を見極めて、自分の皮膚を守るための最大限の努力と万全の用意を整えることは容易なことではない。
そのためにはまず自分の皮膚を「受け入れ」なければならない。 「皮膚」は「敵」ではなく、自分の「不安定さ」の犠牲者であり、愛すべきパートナーである。
どうすればよいのか?
今、この「時代」においては、人は「支え」を必要としているのだと思う。 「支え」と「依存」の違い。 「依存」とは「他のものをたよりとして存在すること(広辞苑)」でありそこに「主体性」は存在しない。 筆者の考える「支え」とは、ある目的を達成するために援助してもらうことで、そこにははっきりとした「主体性」がなければならない。
では具体的な「支え」とは? 「子供」が「成長」するには親の「支え」がなければならない。 とりあえず、生まれたての「子供」はその存在のすべてを支えてもらわねばならない。
しかし親は徐々にその「支え」の方向性を「自立」に向けていかねばならない。 必死に生きていかなければならない時代、「子供」は勝手に「大人」になっていた。
今は、うまく「支え」られなければ「大人」になれない時代だと思う。 何を「支え」るのか? 最初に言ったこと、「不安定な心」を支えるのである。 「自分のことは自分でする」この大前提に立って、「子供」に生じたストレスを見極めて、戦うべきものは戦わせ、受け入れなければならないものを受け入れさせる。
この時に、優しく支えてやれるかどうか。 年齢に関係なく、「自立」前の「子供」には「甘えてはいけないこと」と、「自立」のためにむしろ「甘えるべきこと」がある。
我々がよく口にする「早寝早起き腹八分」や「適度な運動」など、「悩む」対象とならない(ある意味当然行われるべきこと)ことがらはやはり「甘えてはいけないこと」である。
「受け入れる」べきか「戦う」べきかわからないこと、わかっていても不安で行動できないこと、これがある意味「甘えるべきこと」である。
理想的な「支え」は、無条件でその「不安」を受け入れて、「安心」を与えること。 「子供」は、外から見て自立した行動(「自分のことは自分でやる」)をとりながら、内面の「不安」を「支え」られて、「経験」をつみ、やがて「不安」を自己解決する力を持ったとき、「自立」する。
アトピーでは往々にしてこの逆の状態、「甘えてはいけないこと」を甘えて、「甘えるべきこと」を甘えない場合がある。 「生活習慣」に属する睡眠コントロール、食事の時間とその内容、身の回りの整理‥ これらについてつい「甘え」てしまうことが多い。
夜眠れないので昼まで寝る、食事の時間はバラバラで間食が中心になる、身の回りのことは布団の上げ下ろしからすべて親まかせ‥ 親もまたこの状態にどう対応してよいかわからず、「このかゆみがわかるものか」と言われれば、何も言えずにその状態を容認してしまう。
そして本来「甘えてもいい部分」、その態度の中で本人が本当に悩んでいること‥―このままじゃダメだ。でも何かするにしても、湿疹が悪くなるかもしれないし、不安で自信がない。かゆみの発作に襲われたら、駄目だとわかっていても血が出るまでかいてしまう。
かくな、と言われても止めようがない。自分でもこのままじゃだめとわかっていてもどうしていいかわからない‥―こういう、考えても堂堂巡りするようなことを、相談もせずに自分でかかえこんでしまう。
かくしてこの関係において、この人の「成長」はなかなか訪れないということになる。 理想的には親(あるいは配偶者、親友、その他「支え」となるべき人物)のするべきことは、まず「不安」を取り除くこと。
親自身がいかに不安であろうとも、笑顔で受け入れること、「何があっても守ってやる」と無条件な安心を与えること。 その努力をした上で、甘えてはいけないところを正して、生活を改善させる。
−私は誰からも非難を受けるような生活はしていないんだ−
そして「不安」を「支え」られることで、次の行動へ移ることができる。 「目標」を掲げて行動の「意義」を見つけること。
この関係において、この人の「成長」は促進される。
皮膚炎に疲れると、他人に対して無意識の内に気配りを要求してしまう。 −私はこんな状態でこんなに悩んでいるのに、なぜあなたにはそれがわからないの?− 「被害者」の意識は他人に理不尽な要求を突きつける。
その根底には「こんなことになったのは私が悪いんじゃない」という気持ち。 しかし本人に落ち度がなくても、敵に食べられてしまったのでは、野生の世界では言い訳にもならない。
自分の幸せをつかむのは自分しかいない。 「支え」になって欲しい人物に対して、あなたはどんな態度でどんな言葉を発したのか?
もし自分がその相手の立場なら、今の私の支えになってやろうと思うだろうか?
もちろん、人によって「自立」の度合いは違うわけで、必ずしも「支え」がなければ「自立」できないわけではない。 「不安定さ」をかかえながらも、それでも日常生活を送っている内に、経験値が増えていけば、自然に自信がついてきて「自己コントロール」ができるようになるものである。
ただ、「不安定さ」をかかえている間の、皮膚炎の強さ、増悪のレベルが問題になる。 許容範囲を超える場合に、皮膚炎の存在がさらに「不安定さ」を増大させ、「被害者の意識」を拡大する。 したがって「支え」がない状態で、許容範囲を超えた皮膚炎に対して‥
さて次回から「許容範囲を超えた皮膚炎」に対する「治療」を考えていきます。